リンチの考える「都市」とは

知覚環境の計画 (1979年)

知覚環境の計画 (1979年)

なかなか纏め上げるのに時間と労力と伴う本書である。しかし、名著であるのは違いない。これをきっかけに『都市のイメージ』を読み返したりしている。やっぱり、素朴におもしろい。リンチを対象にした人文科学的研究もネットでちらほら拾って読んでいる。

『都市のイメージ』では都市の視覚構造を記号学的に展開し、そしてそのアイデンティティーを判読性、<イメージアビリティ>に求めた。『時間の中の都市』では時間、記憶に議論に導入し、都市について論じた。
『知覚環境の計画』では、『都市のイメージ』であえて避けていた、環境に潜む「意味」について述べられている。


本書では以下の三つの疑問について、具体例を示しながら順番に答えていく。


○知覚的な質とはなにを示しているのか?
○現実にそれは社会的な重要性を持っているのか?
○実際にそれを地域の尺度で運営することができるのか?


「私は、体験される環境の質を地域の尺度で計画すべきだと考えている」

「知覚的な質」とは生活体験の質のことであり、「場所の感覚」のことである。物理環境における暑さ、埃、建築、眺望景観、その場所が象徴する非人間性、などそれらを多岐にわたって取り上げる(本書の「知覚的な質」という言葉には、様々な通俗的含意が込められているが、罪障や官能的快楽への連想を含むものではない)。そしてこれらの質の社会的な重要性と同時に、往々にして見放されてきたことを指摘する。「景観の体験は他のいかなる因子にもまして根本的なもの」であることから、計画の初期段階で「知覚的な質」を運営するべきだと述べられる。ここは樋口先生の「日本の景観」に相通じるものがある気がする。

人々の生活は「地域の尺度」で営まれており、そのためには、中央集権力的ではない、そこに生きる市民たちの介入によって考慮することが鍵になるということをリンチは主張する。「知覚的な質を対象とする地域活動の目標と種類」にどのようなものがあるかをいくつかの例をとって描写が行われ、「計画の過程」に力点が置かれている。当時のアメリカにおける知覚環境の運営組織に向けていることを意識して書かれているので、実際の該当期間は無論、日本には存在していないが、まさに都市景観のテーマだけにはとどまらない「味気のある都市」をつくるための実践に向けた、非常に示唆に富む一冊といえるだろう。

物理的な環境がわれわれをどのように支持することができるか、またいかなる契機において脅かされうるのか。リンチは都市の客観的形態について述べるのではない。それは「都市のイメージ」おいても意図されたことであり、多様な個人的意味を都市としての総体に還元することを行わなかったことで、<意味>の重視を捉えることができるのである。リンチは一貫して、人々の都市に対する認知、その結果がどのようなメカニズムでフィードバックされうるのかを論ずる。それを踏まえて、「地域感覚の運営」について具体例をとって述べることが、将来の都市計画の実践に向けた展望を大きく切り開くのである。
そこに僕はリンチの風景論がみえかくれしているように感じられたのである。「知覚的な質を他の問題点と切り離して扱うべきではなく、知覚的問題点は全ての計画努力の中にはっきりと表現されるべきである」「景観の体験は他のいかなる因子にもまして根本的なものであり、計画の第一段階から考慮すべきものである」という文章にもはっきりとこめられているように感じたのだ。


一周読んだくらいでわかった気になるのは簡単だ。そして、肝心の実践の話がまったくできていない。加筆しよう。現代において、私はリンチから一体何を読み取ることができるのか。はわわ。

最後にひとつ、キーセンテンス。

「審美観は泡のようなもので、分析が難しく、簡単に吹き飛ばされてしまうと考えられている。私たちの文化は、知覚形態を表層的事象、つまり内面的実体が形成されてから校了すべき上辺の光沢を示している。しかし、表層は内部と直結している。表層はあらゆる交流の場所なので、全体の機能の中で、特に重要な役割を演じる。遺伝形質を除けば、私たちが知り感じるものは、全て表層からやってくる。」