東京日記01(9/2~10)

8月の末から東京に来ている。

GSワークショップに参加してきた。
東京大学で開かれたこの8日間のワークショップ、今思いつく限りでも課題と反省点をつらつらと書いて行こうと思う。
 僕は去年、九州のワークショップで賞をとったり、コンペでグループワークを幾度ともなく行っていたので、少なからず段取り云々はわかっているつもりだった。が、揺るぎなきコンセプトを設定するまではいっても、なかなかデザインにおちることはなく、良い空間が生まれない。そこが前回までの課題だった。ロジカルにオートマティックに進めて行くなかで、どれだけ感覚的な「遊び」を拾い上げて行くことが出来るか。そういったことを考えていた。しかし、それは単に今までが周囲の環境に恵まれていただけ、かもしれない。
残念ながら私のチームの提案は、たいした成果物にならず、評価ももらえなかった。
その提案はデザインの「飛躍」ではなく、「放棄」だった。しかし僕はそれを止めることが出来なかった。朝まで続いた何時間もの説得もむなしく、「まあいいじゃん」という言葉で流されてしまった。共有できないのが最初からわかってるんだったらちゃんと論理的に説明してくれ!「論理じゃない」というのはそのあとの話だ。コミュニケーションがとれないとグループワークでも何でもない!そんな設計演習は一人でやればいい。
結局のところ、時間切れ、僕らの提案は予定調和の弱々しいものになってしまった。議論が全く続けられないまま、ほかの三人がコンターを積み出したところでもう帰ってしまおうかとも思ったが、結果的に講師の方々の貴重なご講評をいただいたので、救われた気分がした。僕が言いたいことをすべておっしゃってくれたような。
自分に対する課題はわかっている。
ひとつ。「人の意見をどう拾い上げて行くか」という僕の姿勢は、結局のところ「遠慮している」とはき違えられたし、取り違えてしまった。その姿勢はあらためなければいけない。相手に敬意を払うからこそ、他人のアイデアに全力でぶつかって行く。それで相手がつぶれたらそれまで。それぐらいの覚悟がないといけなかったと思う。ただ、本当にこれ以上やるとつぶれそうだったんだよな、、、
ひとつ。感覚的なものをどう共有していくのか。それは残念ながら、ロジックで実現できるものではない。だからといって絵だけみてこれはすごい、いやすごくないといっても水掛け論である。某先生がヤン・ゲールについて言及したように、そこはやはり「感覚の論理」なのだ。論理ではなく、論理”的”に共有すること。それができなかったのは本当に残念だった。
ひとつ。デザインボキャブラリーを、もっと、徹底的に。

何を成すべきかが段々とわかってきた。
やりたいことをやればそれでよろしい。