読書日記5

日本の風景・西欧の景観 そして造景の時代 (講談社現代新書)

日本の風景・西欧の景観 そして造景の時代 (講談社現代新書)

現代思想の出現に関連して、風景の思潮をメタレベルで掘り下げていて、なかなか眠たい文章に仕上がっているが、美術・文学などを通して、「風景の発見」の近代からポストモダンの中に「風景の喪失」というポストモダニズムを発見する分析方法には、文化論としては、ふむふむといった感じではある。つまり現状の自分ではプラットフォームが脆弱であるが故に、「ふむふむ」以上の感想がでてこないのである。

風景,風景画(Landscape)

語源から見るとおり、本来の意味での最初の風景とならんで、Landschap(風景)という言葉が生み出された。本来の意味で、というのは、自然の表現が中心的な要素となっている絵のことである。前近代における絵画とは、イメージ(芸術作品)が、現実の風景(環境)と極めて近い位置にあったのではないかと文脈から判断できる。「原風景」とは「自然」そのものではなく、「野性空間」がそれに近い。それこそ森林の開拓なんてものは、東方(ギリシャ)では紀元前7000年頃から、西方(フランス)では紀元前6000年頃から行われていて、純粋な「自然」とは、もはや我々が知覚しえるものではない。

ポストモダン(自己同一性の抽象化、大きな物語の喪失)という社会変化より、美術における線的遠近法からの決別(前衛)、それまではないがしろにされてきた非合理な心情的遠近法が表現されていく。我々が風景を知覚するときには、つねに想像力が介入してくることになる。風景という主体と客体対象の間の関係の事実においては、主観的なものは必然的に客観的なものと合成され、主体と客体という近代の二分法が有効性を失うのである。

近代(主体性と客観性、物語の存在)→ポストモダン(自己同一性の抽象化、大きな物語の喪失)

近代(風景の発見)・自然主義的リアリズム  →ポストモダン(風景の喪失)・近代美術から印象主義キュビズム

・人間にとっての「野生の空間」は、人間が自ら環境を変化させていくことにより(人工環境の創造により)生み出された。
・したがって、「野生の空間」とは、普遍的なものとして大昔に存在していたのではない。
・同様に考えると、「田園」も「町(都市)」の誕生後に生まれた概念であるとすることができる(日本と西欧はプロセスこそ違えど、都市を出発点としてである。)つまり、農民がつくるのは、あるひとつの環境、すなわち元風景なのである。

本書はここから、西欧近代のパラダイムに対応する風景の時代は消失し、「山水」「風水」のような非西欧的、伝統的パラダイムの風景の時代でもありえない新しい風景、近代の風景の危機から生まれたポスト二元論と、世界が知るようになったもうひとつの大きな風景の伝統つまり東アジアにおいて前提とされる非二元論の、これらの総合から形をとることになる「造景の時代」が到来していることを示している。